夭折の画家・三橋節子プロフィール【年譜】

更新日:2022年08月26日

三橋節子

三橋節子は、大津市の長等に在住していた夭折の日本画家で、1939年(昭和14年)生まれです。

節子が描いた作品は、傾向として次の3つの時期に分けられます。

 1 野草の絵の時代 1968年(昭和43年)まで
 2 インドの人物画の時代 1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)まで
 3 伝説画の時代 1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)まで

3つの時代を分かつものが、1968年(昭和43年)1月から2月にかけてのインド・東南アジア研修旅行と、1973年(昭和48年)3月の腫瘍除去のための右腕切断手術です。

中でも、利き腕の右手を腫瘍のため切断後、余命いくばくもない中、絵筆を左手に持ち替え、1975年(昭和50年)に35歳の若さで夭折するまでの間、「花折峠」や「三井晩鐘」等の近江昔話を題材に、幼い子らを残して逝かねばならない境地から描いた情感ある絵画が、館を訪れる方々に高い評価をいただいています。

1939年【昭和14年  0歳】

3月3日、農史研究者三橋時雄と妻珠の長女として出生。

桃の節句に誕生したので節子と命名。結婚まで京都市左京区で暮らす。

1943年【昭和18年 4歳】

絵を細木成実に、習字を藤井恵融の両氏に習い始める。

1952年【昭和29年  15歳】

高校入学と同時にバトミントン部と美術クラブに入る。

1957年【昭和32年  18歳】

京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)日本画科に入学。

猪原大華・上村松篁・奥村厚一・秋野不矩・石本正らの諸氏に教えを受ける。

1960年【昭和35年  21歳】

美大卒業制作展に少女立像を描く。9月、第24回新制作展に「立像」を出品し入選。

1967年【昭和42年  28歳】

新制作展をはじめとした様々な展覧会に作品を発表するかたわら、年末から翌年にかけてインド・東南アジア研修旅行に出かける。

1968年【昭和43年  29歳】

11月17日、大津教会で日本画家鈴木靖将氏と結婚。

結婚を機に大津市長等で暮らす。

1969年【昭和44年  30歳】

インドに関する作品を続々と発表。

1970年【昭和45年  31歳】

2月、長男草麻生(くさまお)誕生。

1971年【昭和46年  32歳】

10月、長女なずな誕生。

1972年【昭和47年  33歳】

12月、夫靖将と日本画二人展を開くなど、夫と子供にかこまれた幸福かつ充実した時期を過ごす。

1973年【昭和48年  34歳】

1月、右肩の痛みと腫れのため、京大附属病院で診察を受け、右肩鎖骨腫瘍と診断される。入院・手術を待つ間、自宅で「湖の伝説」を制作。3月9日、右腕切断手術。6月には左手で描く初めての作品「菩提樹」を制作。その後「三井の晩鐘」「田鶴来」「鷺の恩返し」等、琵琶湖伝説に題材を得た作品を発表。12月、腫瘍の左肺への転移が発見され再手術。

1974年【昭和49年  35歳】

回復の見通しのないままに退院し、残された時間を子供と夫のためにと制作活動に励み、この年「羽衣伝説」「花折峠」等を制作。また第2回目の節子・靖将二人展を開催、絵本「雷の落ちない村」原画を発表。11月、家族で余呉湖に一泊旅行。12月、京都府立医科大学附属病院に3度目の入院。

1975年【昭和50年】

1月15日、病床で第10回京都日本画総合展への出品作「余呉の天女」を制作、絶筆となる。2月24日、転移性肺腫瘍のため京都府立医科大学附属病院で死去。享年35歳。

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