三橋節子と梅原猛氏、そして秋野不矩氏

更新日:2023年08月02日

梅原猛氏は哲学者・評論家。三橋節子が亡くなった1975年(昭和50年)からおよそ1年後、当時、京都市立芸術大学学長であった梅原猛氏のもとへ節子の遺族から送られた節子の画集や遺稿集を読んで大変感動したことが契機となり、1977年(昭和52年)に「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死」が出版されるに至りました。その後、対談集や寄稿文等で三橋節子のことを次のように語っています。

三橋節子の画業

芸術あるいは人間の中心に愛と死がある、それを芸術は語るのだ、そういうふうに私は思っていたんです。その例が向こうから飛び込んできたという感じですね。

私は、やはり芸術の本来に、そういう人生の根源的なものを追求すべきだと思うのですよ。特に現代という世の中は、物質文明に追われて、根源的なものを見失っている。そこに何か、節子さんの人生と芸術はわれわれをそういう根源的なものへ返さしていくような、そんなもんじゃないかと私は思うのです。

【NHK日曜美術館第六集(1977年)から梅原猛氏談抜粋】

(ひそか)なるものの語る声は静か

彼女は、はなはだ寡黙であった。残された絵以外に、自分の人生についても自分の芸術についても、彼女は何も語らなかった。彼女は、たしかに、この上なく静かに語った。

しかし、彼女の語ったものは密なるもの、その内部に深い深い意味を秘めた密なるものであったと思う。というより、密なるものが、三橋節子の生活と芸術を通じて、何かを静かに語ったように思われる。

【三橋節子の語るもの(三橋節子画集)から梅原猛氏文抜粋】

 色紙

三橋節子さんのこと

われわれの世界には出会いということがあります。出会いは、必ずしも生きている人同士のあいだで起こるものではありません。私たちは、死んだ人にも出会うことができるのです。

私が三橋節子さんに出会ったのは、彼女の死後一年たって、ご遺族から送られてきた三橋節子画集と追悼文集吾木香を読んでからです。その画を見て私は大変感動しました。その感動が、自然に文字になったのが「湖の伝説―三橋節子の愛と死」という書物であります。

私は今までたくさんの本を書きましたが、この書を書くときのような不思議な体験をしたことはありません。書きながら私の心が清められ、人間が高められていくように感じられたのです。節子さんは愛を忘れた現代人に愛の尊さを教えるために、仮に人間となって現れた聖女であったような気さえ、私にはするのです。

【絵本雷の落ちない村から梅原猛氏文抜粋】

秋野不矩氏は日本画家。三橋節子が1957年(昭和32年)に現・京都市立芸術大学日本画科に入学し、助教授であった秋野不矩氏から教えを受けました。その後、画家となった節子にインド・東南アジアへの美術研修旅行をはじめ、節子の入院見舞い時に子供たちへの絵本制作を勧めたのも師である同氏でした。

三橋節子の絵

節子さんの色彩感というのは、なかなかいいですね。よく使っておられる胡粉の白の使い方。どの絵にも白い部分があると思うのですが、白でもって表わしていく世界、非常に何か俗でない、静かな、そういうものが好きだったんでしょうね。白で表現していく、それで朱をよく使っておりますね。赤も好きな色だったと思いますね。

白と朱は、非常にお互いに美しくさせますね。それと紫がかった群青が、下地の上に薄くかけて、そして雰囲気を出していく。不思議に、造型的に非常に計画された、そんなに計画して、それが非常に自然な状態でなされているというのがね、非常に尊いと思うのですね。

【NHK日曜美術館第六集(1977年)から秋野不矩氏談抜粋】

[参考]三橋節子の絵は傾向として概ね次の三つの時期に分けられます。

  1. 野草の時代 1968年(昭和43年)まで
  2. インド人物画の時代 1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)まで
  3. 近江昔話の時代 1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)まで   

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