「文学のまち大津」インタビュー:グループ源氏 主宰:山本孝子さん
「文学のまち大津」インタビュー集。大津市内で文学に関する活動を続けている人を訪ねて取材をしています。
大津市民会館内の大津公民館で、グループ源氏を主宰する山本孝子さん。月2回ペースで源氏物語を原文で読むという活動を続けられています。
インタビュー
ー 源氏物語の魅力 ー
まず、源氏物語は何が書かれているかということなのですが、人を愛する、愛する人を亡くす、亡き人を悼む、年老いるということ。それは何も男女の仲ばかりでなく、親子の情愛であるとか、息子や娘を亡くした親であるとか、様々な間柄の愛や悼み、歳を取るということや、そういう時代を経ても変わらない人間の営みが全て書かれた本だと思います。
そして、なぜ千年もの長い間読まれ続けているのかですが、登場人物たちの愛する者へのいつくしみであるとか、執着心、葛藤、悲しみ、苦しみ、憤り、それらが心からなる叫びとして、読者に届くんだろうと思いますね。
ー グループ源氏の特長 ー
源氏物語っていうのは、いろんな発表や鑑賞の仕方がありますよね。源氏物語について書いたり、訳本で楽しんだりとか、色々あります。しかし、源氏物語というのは言葉を知ったり、言葉の美しさが非常によくわかる物語ですから、私たちグループ源氏では、原文で読むということを一つの柱にしてやっています。
そして、聞くだけとか受け入れるだけの一方通行の講座ではなくて、全員参加型の講座を目指していて、節目ごとに自由な発言を促しています。
ー 原文で読むということ ー
なぜ原文なのか、難しい文を読むのか、時間をかけて54帖の長い物語を、生きているうちに読み切れるかどうかわからないぐらいですが、どうしてそんな長い物を読むのか。
自分で原文を読むことは、一語一語、一文一文あるいは一場面一場面にこだわって読むということなんですよね。それによって作者が書かなかったこと、あえて書かなかったことなどが、非常によくわかるんですよね。
ー ひと文字の解釈 ー
例えば、一番いい例を言いますと、「紅葉賀」ていう割合前半の部分の巻ですが、ひと文字の解釈によって意味が真逆になります。
光源氏は父である帝の中宮、藤壺の宮との間に不義の子を設けてしまいます。それで2人は父帝、あるいは夫の帝を裏切っているという恐れを抱えて、非常に悩むんですけども、源氏は若宮誕生の後一層つのる思いを訴えてくる。一方、藤壺はもう二度と源氏を近づけてはいけないと思ってしまう。もし万が一自分のところに忍んできた源氏が人に見られたら、それが帝の耳に入ったりしたら、この生まれてきた子はどうなるか、あるいは光源氏や自分はどうなるのだろうと思うので、絶対に近づけてはいけないと思う。つまり知らん顔する。冷たくあしらうのです。

その時に、光源氏は藤壺の宮に歌を贈ります。
よそへつつ見るに心はなぐさまで露けさまさる撫子の花
というもので、その歌の意味は、庭のなでしこの花を生まれた若宮と思ってみましたけれども、心が晴れずにいよいよ涙が流れてきたという歌を贈る。すると、藤壺からは返歌が届けられる。その返歌は
袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほ疎まれぬ大和撫子
この子はあなたのお袖を涙で濡らすゆかりのものだと思うにつけても、罪の子だと思いつつも、それでも愛おしまずには居られないという意味の歌ですが、その歌が実は正反対の訳になることがあります。
愛おしまずにはいられないという歌、肯定的な歌ですが、一方ではもう疎まれてしまう、愛おしむ気にはなれないという全く正反対の意味でも取れます。
それはなぜかというと、この歌の中に「ぬ」という助動詞が含まれていますが、その「ぬ」という一字で、打ち消しの「ず」の連体形と、完了の「ぬ」の終止形でもあります。もし打ち消しとして解釈したら、疎み切ることができない・愛おしまずにはおれない、という意味の訳がついてくるのですよね。
逆に、もし完了であったら、涙の露のゆかりと思うにつけて、やはり疎まれてしまう・愛おしむ気持ちにはなれないという意味になります。
訳本では、こういう2つの意味があることを書くわけにもいかないので、どちらかを採用する。しかし、原本に当たれば、こういう訳もあるけれど、実は違う訳もあるということが、この「ぬ」があるためにわかる。一字を読み取るために読む。原文を読むということは、そういうことです。
― 自分なりの解釈、グループの探求 ―
もし疎み切ることができない、愛おしまずにはいらないっていう風に返事を書いたならば、源氏はもう喜々として藤壺のところに迫ってくる。若宮を涙の種と思っても疎み切ることはできないという歌にすると、藤壺の優しく美しく物柔らかな印象の人ということにも合うことになるけれど、自分たちの密通が露見する危険性があるので、それは何としてもやめさせなければいけないという思いがあるから、藤壺としてはやっぱり突き放すようなことを言わないといけない。
疎まずにはいられないという訳だったら、源氏への愛情を押し殺して歌った歌、理性で歌ったということですね。それに非常に藤壺宮の聡明さというものが現れているのではないかと思います。
紫式部がどちらの意味で書いたかということはわからないですが、そうやって、議論にもなりかねないようなことをわざと仕込んでるわけです。
源氏への愛情を拒んで、疎まずにはいられないという歌を書いたことは非常に冷静で聡明な感じ、物事を聡明に冷静に考えることができる人である、人柄であるということだろうと思います。のちにこの子は皇太子になり、後代を託される大事な子になる。一方の源氏は、謀反の罪を着せられそうになり、自ら須磨・明石へ隠棲してしまう。藤壺という人は全く宮中で味方もなく一人で皇太子を守り抜いたという、その聡明さがこの歌によってわかる、こういう歌を紫式部は仕込んだのではないかと思います。
こういうところを読み飛ばしてはいけない、先のことを踏まえて、先々皇太子になるこの子を守っていく強さと聡明さを読み取ってもらうために、作者がわざとどちらとも取れる歌をここに置いたのではないか、そのように思います。
グループ源氏のメンバーの皆さんも、自分が持っている本とか、図書館で調べた訳はどうなっているのかを調べて、この人の訳本はこういうこと、こちらの人の訳がこういうものという風に調べてくださった人があったりします。
このように学習が広がっていくわけです。読み方の面白さの一つがこういうところにあると思います。

ー 引き歌の例 ー
当時の古典の知識に基づいて、勅撰集や私家集にある歌から引いてきた描写を借りること、つまり引き歌も原文を読む上の重要な手引きになります。一例を示すと、一巻目の「桐壺」の中の一節で、最愛の桐壺更衣亡き後。帝の命を受けて女官の靫負の命婦が娘に先立たれたった一人残された母君の屋敷を弔問に訪れる場面ですが、
かしこにまで着きて、門引き入るるより、けはひあわれなり
闇にくれてふし沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたるここちして、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる
という風に書かれてあります。悲しみのために泣き沈んでいるうちに、草も茂って、月影だけが雑草にさまたげられずに差し入ってくる。この描写を理解するには、引き歌が重要になってきます。
とふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にもさはらざりけり
という歌を理解しなければ、意味がわかりません。これは紀貫之の歌集にある歌です。落ちぶれた屋敷は、弔問に来た人の目には、「とふ人もなき宿」、今まではたくさんの方がおいでになったけれど、もう訪ねる人もなき宿となってしまったという意味が補充される仕組みになっており、屋敷に来るのは月影ばかり、この屋敷からはもう春は永遠になくなってしまったという意味になってしまいます。
ページ数とか文字数の制限があって、書きたいように何もかも書くわけにはいかない。その時に役に立つのが、この引き歌の世界観を借りて、書かなくてもイメージがわかるという仕組みです。
平安時代には貴族やそれに仕える人たちの共通知識として、和歌を知っていることが必要でした。字を上手に書くこと、琴をきれいに弾くこと、和歌の知識があることが上流の女性のたしなみでした。
本文の方で書ききれないこと、書けないところが、引き歌の技法で伝わります。
それが源氏物語を読むということの醍醐味って言ったらいいでしょうか。


― 源氏物語との出会い ―
大学で日本文学を取っていたのですが、源氏物語には全然興味が持てませんでした。男と女の揉め事や女遍歴なんか、言ったら普通に今でもあることでしょっていうようなイメージが払拭できないうちに終わってしまいましたので。
結婚して子供が生まれて、仕事の合間を縫ってご近所の人を集めて読書会を始めたんです。源氏物語以外にもいろいろ読みました。それでせっかく読むんだったら息の長いものだと思って源氏物語を読み始めました。そのうち源氏物語1本になってしまいましたが、やっぱり魅力あったんですね。読めば読むほどその深みがわかるっていうところがありました。
私は小説で好きな作家はドストエフスキーなんです。中でも一番好きなのは「カラマーゾフの兄弟」なんです。人の営みってもう万国共通でしょうしね。ロシア文学も日本の古典もやっぱり通じるものがあるんでしょうね。
ー 今後の展望 ー
源氏物語を残さず読もうという風でやってきましたが、今から新しく始める人向けに「源氏物語いいとこ取り講座」などで、一巻を3回ぐらいに分けて読んだらどうかな、なんて思ってもいます。でも、全部読むから盛り上がるところも、よく理解できることもあります。本当はそういう読み方をした方がずっといいのですが、今から五十四帖とてもじゃないけど完走できないかも知れませんしね。
源氏物語のゆかりのところを巡るというのもやったことありますが、皆さんご高齢になってね、そうなると来ていただけない人もいますから、やっぱり悪い、気の毒ですので、今はもうやめてますけれども。
石山寺、長谷寺、とかいろんなところへ行きました。石山寺も源氏物語の中に何回か出てきます。他の仏様は来世での極楽往生っていうこと目指している教えてますが、ここのご本尊の観音様だけが現世での幸せ・ご利益を与える仏様です。特に法華経の第五巻に女人往生について語られています。仏教では女は極楽に行けないっていう風に言われてますが、女も往生できるっていうことが書かれていて、非常に女性の信仰が厚かった。それで平安時代でも石山寺に行ったり、長谷寺へ行ったみたいですね。
大津市でも、「光る君へ」関連の講演が非常に盛り上がってましたね。その機会を存分に活かして広げてほしいと思います。例えば、ゆかりの場所を訪れるツアーとかね。ちゃんとした専門家の先生に引率してもらうのがいいと思います。

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更新日:2026年05月08日