瀬古優斗選手(陸上競技)

更新日:2026年04月10日

大津市在住・出身など、大津市にゆかりがあるアスリートをご紹介します!

今回は、大津市出身の瀬古優斗選手。走り高跳びを専門とし、国内外の大会で着実に実績を重ねてこられています。昨年には「東京2025世界陸上選手権大会」に初出場ながら、堂々とした跳躍で存在感を示されました。

今回のインタビューでは、これまでの競技人生や世界大会への挑戦、そして未来への展望についてお話を伺いました。

インタビュー

市スポーツ課(以下、市):幼少期には、どのようなスポーツをされていましたか。

瀬古優斗選手(以下、瀬古):小学校の頃は、母の影響でバレーボールをしていました。

:お母様もバレーボールをされていたのですね。

瀬古:はい。母がバレーボールをしており、身長も171センチメートルと比較的高いです。

:お母さまも身長が高かったのですね。バレーボールは、いつ頃から始められたのですか。

瀬古:小学校2~3年生頃から、スポーツ少年団で6年生まで続けていました。

:その後、中学校では陸上競技に転向されたのですよね。

瀬古:はい。瀬田北中学校に入学しましたが、バレーボール部の人数が少なく、試合に出場するには合同チームを組む必要がありました。ちょうど友人から「一緒に陸上をやろう」と誘われたこともあり、バレーボール部には入らず、陸上部に入部しました。

:陸上部では、最初から走り高跳びをされていたのですか。

瀬古:最初は走り幅跳びをしていました。ただ、一緒に誘ってくれた友人も同じ種目で、その友人の方が記録が伸びていました。大会では学校から2~3人しか選ばれず、先輩もいたため、「この種目では選ばれない」と感じました。

:それが走り高跳びへの転向につながったのですね。

瀬古:はい。当時の顧問の先生から走り高跳びを勧められたことがきっかけです。

:バレーボールの経験が走り高跳びに生かされたと感じる事はありますか。

瀬古:バレーボールではジャンプをよくするポジションでしたので、アタック時のジャンプが走り高跳びの踏み切りのリズムに生かされた部分もあったのかなと思います。

:競技を始めた中学生の頃はどの程度跳べたのでしょうか。

瀬古:最初は本当に跳べませんでした。初めての試合では、1メートル30センチメートルや1メートル40センチメートルの高さも跳べず、記録なしで終わることが当たり前で、「もう出場したくない」と思うこともありました。

:その中で、他のトラック競技などに転向したいと思うことはありませんでしたか。

瀬古:中学校では、冬場に長距離を走ったり、基本的には短距離走を中心に練習する環境でした。そのため、走り高跳びの練習は週に1~2回ほどで、他の種目にもバランスよく取り組んでいました。大会では、走り高跳びには他の選手が出場していたため、人数制限のない種目に出場していました。そのような中で、中学3年生頃には走り高跳びで1メートル70センチメートル前後を跳べるようになり、「高跳びは面白い」と感じるようになりました。走り高跳びってわかりやすいんですよ、自分の身長よりもはるかに高いバーの上を跳ぶ。それが魅力なんです。

:なるほど、分かりやすい魅力がありますね。草津東高等学校に入学されてからは、走り高跳びを専門にされていたのですか。

瀬古:当時顧問の小澤先生は、「同じ種目だけを続けていても伸びない。将来を見据えて、さまざまな種目に取り組むことが大切」という方針を持っておられました。そのため、高校では混成競技に取り組みました。

:瀬古選手は、どの混成競技をされていたのですか。

瀬古:八種競技です。100メートル、110メートルハードル、400メートル、1,500メートル、やり投げ、砲丸投げ、走り高跳び、走り幅跳びの8種目で、「走る・投げる・跳ぶ」をバランスよく行う競技でした。ただ、長距離はとても苦手でした。

:インターハイへの出場はありましたか。

瀬古:インターハイ本大会には出場できませんでした。高校3年生の時に走り高跳びで近畿予選に出場し、6位までが本大会出場だったのですが、結果は7位でした。非常に悔しく、諦めきれずに練習を続けていたところ、インターハイの1~2週間前に行われた別の大会で2メートル13センチメートルの記録を出すことができました。
結果論ではありますが、もしインターハイに出場していれば、2位相当の記録でした。その後、国体には選出していただきましたが、思うような結果を残すことができず、記録なしに終わり、高校時代は苦しい時期が続きました。ただ自分が一番成長したのは中学校から高校に入ったときだと思います。

高校生時代の瀬古選手

草津東高校時代の写真

高校生時代の瀬古選手

:昨年出場された「東京2025世界陸上選手権大会」についてお伺いします。国立競技場に立った瞬間は、どのようなお気持ちでしたか。

瀬古:本当にすごい声援でした。知り合いもたくさん来てくれていて、「現地に来ています」という連絡をもらったりもしました。

:世界各国のトップ選手が集まる中で、技術面や体力面など、違いを感じた場面はありましたか。

瀬古:入賞するような選手は、予選を比較的楽に突破し、力を温存したうえで決勝でしっかり結果を出してくるんです。僕は予選を突破するのに精一杯で、力を使い切ってしまい、そのあたりに力の差というか、「1本目で跳ぶことの大切さ」を強く感じました。

:1回のジャンプに、それだけ体力を使うということなのですね。

瀬古:そうですね。体力もかなり使いますし、踏み切りの衝撃も相当あります。

:その影響でスパイクが何度か壊れたそうですね。昨年の福井県での大会では、スパイクが壊れ、本番では左右で違うスパイクを履いて跳んだと伺いました。そのような状況の中で自己新記録(2メートル33センチメートル)を出された時は、どのようなお気持ちでしたか。

瀬古:福井の大会では、観客の皆さんがすぐ近くにいて、手拍子で会場が一体になる盛り上がりを感じました。その時は足の痛みもそれほどなく、コンディションも良い状態で仕上がっていました。本当にうれしかったです。

:日本歴代2位の記録ですよね。

瀬古:そうですね。ただ、2回目が出なければ意味がないですけどね(笑)。

:昨年は滋賀国スポにも出場されました。世界大会も数多く経験される中で、国スポの会場の雰囲気はいかがでしたか。

瀬古:平日の月曜の午前中にもかかわらず、本当にたくさんのお客さんが来てくださって、地元の応援がとても力になりました。

:ご家族も会場に来られていたのですか。

瀬古:はい、母が来てくれていました。

:ご家族や地元の方々がいる中で、他の大会と比べて国スポならではの特別さはありましたか。

瀬古:地元開催ということもあり、知り合いの方がたくさん応援に来てくださいました。また、以前に滋賀県高校記録の2メートル13センチメートルを出したのが彦根の競技場で、現在は改修されてとてもきれいになっていますが、思い入れのある場所でした。
その会場で「何としても優勝したい」と思っていましたが、結果は3位で、悔しさもありました。ただ、それ以上に多くの方に応援していただき、「自分は本当に幸せだな」と感じました。

:地元の支えの中で、幸せを感じられるというのは素晴らしいことですね。

福井県大会で走高跳びをしている瀬古選手

2025年福井県大会時の写真  photo:@hiyo.0710(IG)

:試合前は緊張されますか。また、試合前に必ず行うルーティンや、気持ちを落ち着かせる方法はありますか。

瀬古:試合よりも、こうしたインタビューの方が緊張しますね(笑)。特別なルーティンは、あえて作らないようにしています。強いて言えば、昨年7月の日本選手権後にベルギーとフランスを訪れた際、同部屋の選手が試合前にコールドシャワーを浴びて「スイッチを入れる」と言っていたのを見て、それを少し真似するようになりました。最近は試合前に取り入れることもあります。

:体を冷やして気持ちを切り替え、試合に向けてスイッチを入れるということですね。では、毎日欠かさず行っているトレーニングなどはありますか。

瀬古:毎日同じことをしているわけではありませんが、週単位でおおよそのルールを決めています。週2日はウエイトトレーニングを行い、週に1~2日は階段や坂を使ったダッシュを取り入れています。そのほか、現在の状態を見ながら、不足している部分を補うための細かいトレーニングを週に3日ほど行ったり、踏み切りのドリルやカーブ内傾の練習などにも取り組んでいます。

:練習場所は、母校の草津東高等学校のグラウンドですか。

瀬古:国スポは少年の部でも走り高跳びがあるので、国スポまでは一緒に成長していければと思って母校で練習させていただきました。ただ、結果として少年選手を輩出することができず、その選手も3年生だったことから、一つの区切りと考え、現在は母校での練習は行っていません。
関東へ行くこともありますが、基本的には県内での練習が中心です。

:これまでで、最も思い出に残っている大会はありますか。

瀬古:やはり印象深いのは東京世界陸上です。これほど多くの観客が集まり、スタンドが埋まる光景を目にしたのは初めてで、とても驚きました。海外の大会でも、あれほどの観客数は見たことがありませんでした。

:これまでの競技人生の中で、最も大きな挫折だと感じた出来事はありますか。

瀬古:インターハイ近畿予選で7位だったことも挫折の一つですし、インカレでは、1年から3年生の時はすべて入賞できていたのに、4年生の時に入賞を逃したことも大きかったですね。
また、社会人チームに入ってからも、2023年の世界陸上ブダペスト大会では、ワールドランキング36番までなら出場できるのですけれど、36番以内に入りながらも国内の選考会で敗れてしまいました。
パリオリンピックでも、実力を発揮できていれば出場できたと思いますが、日本選手権の選考大会でうまく跳ぶことができませんでした。振り返ると、挫折だらけなんです。

:走り高跳びという競技は、それだけ難しさがあるということですね。

瀬古:そうですね。高さ自体は十分に跳べていても、別の部分に触れてしまったり、「跳べる」と思った試技でバーを落としてしまい、なかなか記録につながらないこともあります。その日のコンディションによって結果が大きく左右される競技だと感じています。

インタビュー中の瀬古選手

インタビュー中の瀬古選手

:オフの日は、どのように過ごされていますか。

瀬古:オフの日は、基本的にボーっとしていますね。ナマケモノの手袋をプレゼントされて、「これ、君だよ」と言われたことがあるくらい、普段はのんびりしています。
以前はスノーボードをしにびわ湖バレイへ行ったり、びわ湖テラスで景色を楽しんだりしていました。最近は、琵琶湖の湖岸沿いで何も考えずに過ごすことが多いです。普段は考えすぎてしまうことが多いので、頭の中を空っぽにして、のんびりする時間も大切にしています。

:次の国スポに向けてはいかがですか。

瀬古:次の国スポに向けて、県の強化合宿には参加させていただいています。ただ、自分のスケジュールとなかなか合わず、参加できる機会は多くはありませんが、都合が合うときには積極的に参加するようにしています。

:今後の目標や、次に目指している舞台を教えてください。

瀬古:オリンピックや世界陸上で、メダルを獲得できるような選手になることが目標です。

:陸上競技に励んでいる子どもたちや学生の皆さんへ、メッセージをお願いします。

瀬古:たくさん挫折したり、諦めたくなる瞬間が必ずあると思います。それでも、「まだ陸上を頑張りたい」という気持ちが少しでもあるなら、簡単に諦めず、挑戦し続けてほしいです。
きれい事に聞こえるかもしれませんが、諦めなければ達成できることは必ずありますし、チャンスも残っています。若いうちにしかできないことを大切にしながら、自分が納得できるところまで、しっかり突き詰めていってほしいと思います。

自己新記録を出した2m33の高さのバーの前での瀬古さん

自己新記録となる2メートル33センチメートルのバーは、瀬古さんの身長をおよそ50センチメートルも上回る高さです

貴重なお時間をいただきありがとうございました。
数々の挫折を乗り越えてこられたからこそ、今のご活躍があるのだと強く感じました。
今後も瀬古優斗選手の国内外の大会での挑戦とご活躍を、心より応援しております!
(この記事は令和8年2月時点のインタビューを基にしております。)

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市民部 スポーツ課
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